脇坂 健次郎(わきさか けんじろう)は、城ヶ島出身の眼科医。1930年代に独自色の強い地誌研究を行ったことで知られる。著書に『城ヶ島之過去帳』、『御崎沿革誌』、雑誌『御崎』などがある。

経歴

1877年(明治10)、城ヶ島常光寺の住職をしていた脇坂家に生まれる(2)

16歳のとき、小学校准教員の検定試験に合格。17歳のとき、三崎小学校で教鞭をとりながら、医術開業前期受験の準備をし、1年で合格して退職。(2)

上京して、1ヶ年で医師の資格を取得(2)

三崎で眼科医を営む(2)トラホームの治療に関して、独創的な意見を持っていた(2)

また松林千里と共に、三崎のアマチュア・ラジオ研究の草分け的な存在だった(2)

1931年・1932年頃から、1938年の初め頃にかけて、郷土史研究を行った(2)。城ヶ島の加藤家・杉山家や、海外の石渡家など、三崎の旧家の古文書・古絵図を渉猟し、墓碑・灯篭・鐘銘などの金石文を調査。三崎地方の地盤隆起についても研究を行った。(2)

1954年頃、東岡京浜急行バス三崎営業所の丘の上にあった洋館がその旧居だった(2)

著書

  • 1932年(昭和7)-1935年 『郷土沿革誌』神奈川県立公文書館 神奈川県歴史資料 第22集-3 脇坂眞氏所蔵文書 資料1-6

    • 『城ヶ島の過去帳』・『御崎沿革誌』の頃の草稿集

  • 1933(昭和8)4月 『城ヶ島之過古帳』神奈川県立図書館蔵本(青山孝慈氏寄贈の謄写本)

  • 1933(昭和85 『城ヶ島之過去帳』三浦市教育委員会内海文庫蔵本(内海延吉旧蔵本)

    • 神奈川県立図書館本は、内題に『城ヶ島及脇坂家之過去帳』とあるとおり、常光寺・脇坂家関連の記事が多く見え、草稿本のようであるが、脇坂家の親族や城ヶ島仏教青年会(同書によれば、19333月結成)の関係者に謄写版が配布されたのかもしれない。

    • 三浦市教育委員会内海文庫本『城ヶ島之過去帳』は、奥書により、その約1ヶ月後に成立したとみられ、常光寺・脇坂家関連の記事や世界・日本全体・三浦三崎の記事などの多くが省略され、全体が再構成されて、語り口がやさしく改められた浄書本。常光寺で193212月から開かれていた仏教日曜学校に参加する児童(や高齢者)を読者として想定していたと思われる。

    • 浄書本において三浦・三崎の話題まで省略されている理由は、別冊(『御崎沿革誌』)の編集・刊行を企図していたためと思われる。

    • また城ヶ島関連では、常光寺の檀家で三崎町長も輩出している加藤家関連の記事に省略が目立ち、同家への対抗意識が感じられる。城ヶ島関連の記事には加藤源左ヱ門『常光寺入用略記』や加藤泰次郎『城ヶ島沿革誌』を出典とする記事が多く含まれているが、出典記載も省略されがちな印象がある。

    • 表題にある「過去帳」が、故人の名前や生没年を把握するためだけでなく、死亡者数から人口を推計するための統計資料として用いられている点が特徴的。

    • 巻末に、城ヶ島の民家が所属する寺院の法統継承一覧表と、各寺院の過去帳を調査して作成した城ヶ島の民戸の沿革図が添付されている(2)

  • 1934(昭和9) 脇坂健次郎(愚心庵K・W居士/脇坂健次郎 K・W 愚心堂)『御埼(美佐木)沿革誌 第1輯~第6輯』神奈川県立公文書館 神奈川県歴史資料 第22集-3 脇坂眞氏所蔵文書 資料1-6

    • 成立は第1輯~第3輯の後、6→4→5の順(第6輯の冒頭、コマ135-136に言及あり。6と4はどちらも発行日が1934年9月20日付)。

    • 第5輯は脇坂眞氏所蔵文書の目録によると含まれているかのようだが、未収録。

    • 第6・4輯は歴史資料第11集の最福寺文書にも収載あり(冊の170,171)。画像は最福寺文書の方が鮮明で判読しやすい。

    • 最福寺文書本と比較してみると、脇坂氏本の第6輯(コマ147-149)には差替前らしき頁があり、また書き入れの追記があって、著者本人の手元にあった本とみられる。

  • 脇坂健次郎・〔相州三崎〕郷土(調査)会、雑誌『御崎』

    • (私立)郷土調査会の名で発行。月刊、謄写刷雑誌。同好者に配布。少なくとも第24号まで続いた。(2)

    • 三浦市教育委員会内海文庫に所蔵が確認できたバックナンバー:No.2-6,8-17,18/19,21,23,24 欠号:1,7,20,22

    • 1935年8月号は県立公文書館の来福寺文書中にもある(画像不鮮明)。

    • 1935年9月号は県立公文書館の最福寺文書中にもある。

    • 現存が確認できている最終号(No.24)の発行日は、1936年(昭和11)12月25日。

評価

  • 三崎志相模風土記の抜き書きの域を出なかった三崎郷土史に、埋れて知られなかった資料を豊富に盛った(2)
  • 医学研究に陶冶された科学性が氏の郷土史研究を特異なものにした(2)
  • 氏の郷土史は、それまでの郷土史の様に鋏と糊で机上で作られたのではなく、足と筆による血の出る様な記録であった(2)
  • 惜しむらくは性格が狷介奇驕に流れ、人を容れ人と和することが出来ず、世間から異端者扱いされたため、高く評価さるべき氏の研究の真価が正当に認められずにしまった(2)

参考文献

  1. 脇坂健次郎の著書については、#著書を参照。
  2. 内海1954:内海延吉「ヌ.脇坂健次郎とその業蹟」『三崎郷土史考』三崎郷土史考刊行後援会、1954、279-280頁
    • 復刻版:臨川書店、1987